2019年08月21日
関ヶ原弾薬庫!
大正3年に完成した、東洋一の火薬庫見学に参加して来ました。 説明される方が、ここの弾薬庫が見つかっていたら、原爆は落ちなかった!と、話され、当時の陸軍の、火薬庫に対する執念を話されていました。
その一つに、地域の女性は、地域外に出られない施策!
男性は火薬庫維持に徴用されて、働かされますので、外へは出られません。 火薬庫がある事を極秘事項でしたとの事。
飛行機が飛ぶ位置を考え、解らない場所を探したようです。
火薬庫ですので、頑丈な造り。 お金にいとめをつけなかったようです。
出しなに百合が咲いていました。 米原に出る途中、栗栖にて




2重構造になっていて、魔法瓶構造です。


針葉樹で覆蓋されています。



続いて、上等な火薬を保存する処を見学! ここは掘られています。


進駐軍が爆破を試みましたが、小さな穴(右側の壁)があいただけで、爆破をあきらめました。

ここも、2重で魔法瓶構造です。



壬申の乱(西暦600年代)は、この池の取り合い!


中は年中、18℃ 出てくると眼鏡が曇りました。


江戸時代までは、近江に繋がる道は、後ろに写っている、2mぐらいの幅の道だけでした。
今回は昼食付きでした。

その一つに、地域の女性は、地域外に出られない施策!
男性は火薬庫維持に徴用されて、働かされますので、外へは出られません。 火薬庫がある事を極秘事項でしたとの事。
飛行機が飛ぶ位置を考え、解らない場所を探したようです。
火薬庫ですので、頑丈な造り。 お金にいとめをつけなかったようです。
出しなに百合が咲いていました。 米原に出る途中、栗栖にて




2重構造になっていて、魔法瓶構造です。


針葉樹で覆蓋されています。



続いて、上等な火薬を保存する処を見学! ここは掘られています。


進駐軍が爆破を試みましたが、小さな穴(右側の壁)があいただけで、爆破をあきらめました。

ここも、2重で魔法瓶構造です。



壬申の乱(西暦600年代)は、この池の取り合い!


中は年中、18℃ 出てくると眼鏡が曇りました。


江戸時代までは、近江に繋がる道は、後ろに写っている、2mぐらいの幅の道だけでした。

今回は昼食付きでした。

Posted by
私は俊丸
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15:15
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