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50の手習いで始めた南京玉すだれも令和6年6月で25年が経過します。

2019年03月04日

降って湧いた光秀、多賀出身説?

 2日午後7時から、多賀町福祉会館(多賀区の拠点)で、澤田順子さんによる、「降って湧いた明智光秀多賀出身説」の講話があり、紅峰さんと出かけて来ました。
 澤田さんによると、自身の実家の蔵を整理していたら、古文書がたくさん出て来たとのこと!
 一体何が書かれているのか?解読出来ないところを、町や県の文化財の担当部署で聞いたり 、多賀大社保管の古文書を読んだりして、
 一般に、明智光秀と呼ばれているが、光秀は亡くなってから呼ばれる名前で、正式には明智十兵衛光秀であり、普段は明智十兵衛と呼ばれていた。
 ・光秀の三代前は、主人に刃向かい、美濃から佐々木六角氏?を頼って、近江に移り住んでいる。
  (当時では、生き延びるのに日常茶飯事の下克上時代であった。)
 ・多賀大社の周りには坊人が多数おり、多賀大社のお札を売り歩いたり、布教活動で、全国を回っていたので、各地の情報を収集していた。
 ・国道306号線沿いの佐目は、美濃・尾張と近江を繋ぐ重要な街道沿いの集落であり、明智家は出城の守護役を任されていた。
 ・佐目には、十兵衛屋敷跡と言われる場所が有り、目印に柿の木が植え続けられ、実際に存在する。
  ・信長暗殺時、犬上郡の豪族達が多数参加している。
 ・信長暗殺後、3日目には多賀大社を争いの渦から守るよう!禁制を出している。
 ・明智光秀は信長を暗殺した逆賊扱いで、子孫や関係者は、口を閉ざして生き延びてきた。
  関係者だけに口述で伝えて来た。(今も子孫はおられる。)
 ・20歳ぐらいまでの明智十兵衛の成長の様子が、今でも不明である。

多賀町以外にも、概に5箇所の町が、明智光秀出生地と名乗り出ている。 多賀町は、澤田さんの活動で解って来たようです。
その様な事を話され、多賀の旧家の皆さんに、蔵の整理を呼びかけて、おられました。
歴史ある多賀町、ミステリアスで、面白いところです。


降って湧いた光秀、多賀出身説?


つなぐ三銀蔵さんのフェスブックから戴きました。
降って湧いた光秀、多賀出身説?


降って湧いた光秀、多賀出身説?


降って湧いた光秀、多賀出身説?



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