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私は俊丸
私は俊丸
50の手習いで始めた南京玉すだれも令和5年6月で24年が経過します。

2018年08月15日

全国戦没者追悼式

 政府主催の平成30年全国戦没者追悼式が、午後0時、1分間の黙祷から始まりました。
 平成天皇のお言葉を、二人して、身を律して聞きました。
 今年が最後、お歳をめされた天皇、皇后様を見ていますと、涙が出そうになります。
 いつまで、この国は、お二人を使って行事を遂行するのか? 早くご退位されて、平安な日々をおおくりして戴きたいと思う俊丸です。
 俊丸の父親は、尋常高等小学校あがり、印刷工場に勤め、母親と結婚してから、家内工業の印刷屋を始めたと聞いています。
 自身は上の学校に行きたかったが、行けなかったので、勉強せい!勉強せい!と、よく話していました。
 コクヨの家計簿などを下請けをしていたようです。 ノートなどの側面を斜めにすると、罫線がわかりますが、たいがいはジグザグしています。
 晩年、父は、自身が印刷したノートは、側面を斜めにしても、罫線は一直線に揃っていたと、良く自慢していました。
 その父にも赤紙が届き、舞鶴の駐屯地に入りましたが、1週間あまりで、帰って来たと話していました。
 実は、片耳が聞こえ難かったようで、話す事も声が大きく、いつも、叱られているような思いをしていました。
 戦況が悪くなって来て、自営業もままならず、空襲も多くなり、大阪府消防に入って、治安の維持に務め替えをしました。
 そんな事情で、大阪大空襲の時は、家におらず、母親は、長男をおぶって、ちゃんちゃんこを着て、逃げ迷ったと話していました。
 大川沿いに逃げ迷い、すれ違う人に、背中の赤ちゃん!生きていますか?生きていますか?と、聞きながら、ショウヒ弾が当たり、亡くなって倒れた人達を飛び越しながら、生きのびたと、話していました。 戦争は絶対したらアカン!とも、よく話していました。
 昭和20年8月15日、日本人にとって、忘れてはいけない日。
 戦後、府県別の消防は、市町村ごとに組織替えされた縁で、父親は高槻市へ。 そこで生まれたのが俊丸や弟でした。
 その俊丸も、今年で69歳! 今の繁栄を支えて来ました。 紅峰さんと老春しています。


全国戦没者追悼式


身を律して、お言葉を聞きました。
全国戦没者追悼式




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Posted by 私は俊丸 at 13:37 │Comments( 0 ) 生活
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