昔を語る会
今年度から柏葉クラブでは、昔を語る会!と言う活動が開始されました。
毎月1回、最終水曜日に開催されて来ましたが、俊丸は参加出来ていませんでした。
今回、初めて都合がつき参加して来ました。
今月は、会員さんのKさんが、戦前・戦中、戦後の記憶に残っている事柄を聞きました。
企画されている会員さんのHさん。
話をお聞きしたKさん。
年代表
・戦前の多賀大社は官幣大社(国の管理)と言う格で、宮司さんは、滋賀県知事さんと同格であった。
・戦前に大社前の道路が、アスファルト舗装され、その区間に来たら靴を脱いで、舗装の感触を楽しんだ。
滋賀県で一番最初に舗装されたかも知れない?
・戦争が始まったS16年は小学2年生、終わったS20年は6年生でした。
・戦前は小学校行けば、栄養補給で牛乳(瓶)を飲ませてくれたが、戦争が始まれば無くなった。
・学校に行っても、毎日畑作りで勉強はしていない。 高学年が裏山の土を掘り出し、グランドに運ばされていた。
・小学校の先生達も怖くて、動きが遅い、いたずらをしたりすると、ビンタが待っていた。
・多賀にも、予備の飛行場(八日市に飛行場が有った)が作られ、平らにする為にロウラー引きもさせられた。
・多賀にやって来た兵隊さん達は、お寺に住んでいた。
毎日のように、上官に殴られていた。お寺の門番をしている兵隊さんは、今日はここにいるから殴られないと話していた。
・戦時中はグラマンが低空飛行で飛んで来て、機銃を撃つが人に向けては打たなかった。
・戦後、進駐軍がやって来ると、官幣大社と彫られていた官幣をセメントが塗られて、消していた。
・進駐軍はジープでやって来て、多賀大社前で、チョコレートや砂糖の塊、タバコ等を撒いてくれた。
・子女に悪さをする進駐軍はいなかった。
・度々、やって来ては撒いてくれたが、最後(1年ぐらい後)頃には、タバコを売って日本円を貯めていた。
・数年経って、やっと四日市に帰れる(戦艦で四日市にやって来て、多賀に来ている事が解った。四日市に帰る事は、米国に帰れる事)と、多賀屋さんで、お箸や、おたまを買って、喜んでいた。
関連記事